写真を撮る前に、一度でも机を片付けたことがあるなら。
絵心のない人なんていない理由
デザイナーとして人と接していると
「私、絵心ないんで…」
と言われることが多々あります。
あなたは自分に「絵心がある」と言えますか?
「ある」と即答できない人に、3つ確認させてください。
写真を撮る前に、フレームの邪魔なものを端に寄せたことがある。
3枚撮って、なんとなく一番いいやつを選んだことがある。
料理を並べるとき、色が隣り合うように、少しだけ皿をずらしたことがある。
1つでも当てはまるなら
あなたに、絵心がないわけがない。
問題は才能ではありません。
定義が間違っていたんです。
絵心とは「作る力」ではなく、「感じて苦しむ力」のこと
絵心というものを、多くの人は「うまく絵を描ける力」だと思っています。
違います。
「何かがズレていると感じ、正しい場所に戻したくなる、あの力」のことです。
その力は、キャンバスの前だけで発揮されるのではありません。
冒頭に挙げた3つの場面
あなたはすでに、それをやっているはず。
絵を描いていなくても、あなたの絵心は今日も休まず働いています。
「絵心がない」と一番苦しんでいる人が、一番研ぎ澄まされた目を持っている
少し意地の悪い質問をします。
自分の絵を見て「なんかちがう」と感じたことが一度もない人間は、どんな人でしょうか?
天才とも取れますが、私は「美しさを感じない人間」だと捉えてます。
「なんかちがう」という痛みは、正解が見えているから生まれます。
正解が見えない人間に、ズレの痛みはありません。
つまりこういうこと。
絵心がないと苦しんでいるその感覚が、絵心の発動そのものである。
諦めた理由が、諦めなくていい理由だった、ということです。
「舌」の話
あなたは料理人でなくても、食べ物の塩加減がわかりますよね?
「なんか薄い」
「何かが足りない」
その感覚が、言葉より早く、理屈より早く、舌に届く。
一流の料理人が持つのも、同じ舌です。
彼らは料理学校で「感じる舌」を手に入れたのではありません。
もともと持っていた舌を、信頼することを学んだだけ。
あなたには絵心がない、のではなく
あなたは、自分の舌を信頼することをやめた。
そんな時が、あったはずです。
「誰かの絵と並べられた日」に、本当は何が起きたか?
教室の壁に、絵が貼られた日のことを思い出してください。
自分の絵の隣に、誰かの「上手な絵」があった。
そのとき、こう感じませんでしたか?
「あの人には何かが見えていて、自分には見えていない」
でも実際に起きていたことは、逆です。
同じものが見えていた。
ズレも、美しさも。
ただ違ったのは、紙に描写する手の技術だけ。
なのに、「見える力」ごと失ったような気がしてしまった。
それ以来あなたは、自分の舌を「どうせ私にはわからない」と引っ込めてしまった。
でもずっと、わかってはいた。
「描けない」と「見えない」は、まったく別の傷
「描けない」は、手の技術の話。
「見えない」は、感性の話。
あなたが「絵心がない」と思い込んでいるのは、前者を後者と混同しているからです。
技術は、時間で育つ。
感性は、眠るだけでは消えません。
あなたの絵心はなくなってません。
「自分には関係ない」と思い込んで心の奥にしまわれたまま、今もそこにあります。
ここまで読んだあなたへ
この文章を読んで何かを感じたのならば、それが証拠です。
何も感じない人間は、こんなところで立ち止まらないはず。
うまく描けなくていい。
うまく伝わらなくていい。
「なんかちがう」を感じ続けるだけでいいんです。
スケッチブックを開くことは、新しい才能を手に入れることではありません。
ずっと持ちつづけていたものを、もう一度信頼すること。
あなたは、最初からずっと、見えているんです。




すごく優しい…
元々あるものが何かのきっかけでみんな見えなくなっている、いや、見ようとしなくなっているだけなのかも知れませんね。
絵心ない自覚はありますが、アート見て感じるモノは確かにあります。
それを大切にしていきたいですね。